第1章 太極拳の基礎理論

第1節 太極拳の意義

(1)太極とは?

中国古代の哲学書である『周易・繋辞上伝』に「易に太極あり, これ両儀を生ず。
両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず。」とあるが,「太極」は陰陽を統べるもの
であり,「陰陽」は太極の流転の要素である。

陰陽(矛盾)というのは,事物を概括する二種の属性であり,対立と統一という
二面性を備えており,太極拳においては「虚実・開合・動静・蓄発」等々として具現
化され,相互転化が行われる。

『老子』の第1章は「道の道とすべきは,常の道に非ず。名の名とすべきは,常
の名に非ず。無名は天地の始なり。有名は万物の母なり。」という書き出しである。
「これが道,或いはこれが名と示せるような恒久不変の道や名はない。名のない`道″
が天地のはじめであり,初めて名のできたもの,即ち天地が万物の生みの母である。」
という意味であるが,平たく図示すれば,
道(無名)→天地(有名)→万物
となる。第40章にも「天地の万物は,有に生じ,有は無に生ず。」とある。

天地未分の混沌とした状態から, まず天地(陰陽二気)が生じ,天地(陰陽二気)
の交合調和によって万物が生じたと説く『老子』の思想での「無」は空虚ではなく
「カオス(混沌)」としての「無」であり,老子の思想もまた太極拳の中に反映し
ている,と言える。
○上善は水の若し,水は善く万物を利して争わず。(『老子』第8章)
○虚を致すこと極まれば,静を守ること篤し。(同第16章)
○弱の強に勝ち,柔の剛に勝つは,天下知らぎる莫きも,能く行うこと莫し。
(同第78章)

(2)太極拳の起源

太極拳はかつて「長拳 注①」「浩綿拳」「十三勢」「軟手」「軟拳」「化拳」
「棚勁拳」など,様々な呼ばれ方をしていたが王宗岳が「太極者無極而生,陰陽
之母也。」で始まる『太極拳論』を著してから、「太極拳」という呼称が定着した
と考えられる。

起源については①唐代の許宣平,李道子とする説,②元末明初の武当山の道士,
張三豊とする説など5つほどあるが、河南省温県陳家溝の第9世陳王廷に始まると
する説が最も有力である。彼は17世紀中葉に温県の「郷兵守備」を任ぜられていた
が、隠居した後に造拳を楽しみとして弟子や子、孫に伝授したと言われている。勿
論陳王廷全く個人の力によって太極拳がつくられたのではない。陳王廷より半世紀
ほど前の人である戚継光(1528~1587)は倭寇を打ち負したことで名を成した武将
であるが,彼の著した『紀効新書』のなかの『拳経三十二勢』から多くの動作が陳
家溝の拳に取り入れられているところから、戚継光もまた太極拳の起源に関わる人
物である、と言える。

太極拳はこのようにして武術を整理する中で陰陽の思想や中国古代の「導引法」
「吐納法」をも結合させることによってでき上がった武術であり、今では三百数十
年の歴史をもっている。

注①『太極拳論』の中にも,「長拳者,如長江大海也,活沿不絶也」と記されて
いる。

(3)太極拳の種類と発展
 伝統太極拳の主要派系統図

② 簡化太極拳などの新しい太極拳
「簡化太極拳」の「簡化」とは,「簡易」或にヽ|ま「簡略」「簡便」の意味である
が,「簡化太極拳」の名称は日本でも太極拳愛好者の間ではすっかリポピュラーに
なり定着し,俗に「簡化」又は「24式」と言われ,太極拳の入門用というとらえ方
をされるに至っている。

簡化太極拳は中華人民共和国体育運動委員会の運動競賽司の武術科が編纂し,19
54年に「新体育」雑誌に初稿を発表した後,1956年に正式に発表したものである。
1957年には武術学会が開催され,翌58年に競技用の長拳套路が制定されたが, こ
の時太極拳の教材も検討され,1962年1月に人民体育出版社から『太極拳運動(武
術教材参考資料)』=<①簡化太極拳②太極拳(88式太極拳)①太極推手④太極剣
(32式太極剣)等により構成>が出版されている。

『四十八式太極拳』は1979年11月に出版されているが, この大極拳も簡化太極拳
同様, 2年余りの検討の後発表されたものである。

1990年秋の第11回アジア競技大会を契機に「太極拳競技用套路(総合太極拳)」
が制定され, また伝統四式太極拳の競技用套路が発表されたことは周知のところで
ある。

③ 日本に伝わった太極拳
1960年代はおよそ普及しているという状態ではなかったが,72年の日中国交回復
後, 日中間の交流は急速に発展し,特に1977年秋故飛鳥田横浜市長が上海からバス
ケットボールチームと共に太極拳コーチを招聘したこと, また80年前後にTVのサ
ントリー社のCMで太極拳が放映されたことの影響をうけて日本で太極拳は大いに
普及しはじめた。そして1984年に大阪で「第1回全日本太極拳中国武術大会」を開
催して以後,飛躍的に普及発展するようになった。

第2節 太極拳の特性

(1)太極拳の多面性

太極拳の特性は、平たく言えば、“全身運動″であり、①武術②医療体育、健身法、
生涯体育という両面に加えて、演武されることからも分るように③芸術と
いう属性を備えたスポーツであると言える。抽象的なことばを借りて、④虚実・開
合・剛柔・快慢等々の矛盾の相互転化、対立と統一がある運動⑤身体と動作のまと
まり(完整性)を大切にした円を主体とする運動⑥動作と動作が綿々と続く(綿
綿不断)運動ということもできる。

太極拳愛好者が日常的にそこらの公園でのんびりと勝手気儘にやるかと思えば、
選手が競技に参加して大体育館ですることもある。年齢層も幅が広く、10代、20代
で現役、30代では既に引退というケースの多い各スポーツの中で太極拳は例外であ
り、むしろ20代、30代で始めようとする人が多いし、 5年や10年では大成はおろか
やっと入門か、 という奥深いスポーツである。楽しみもまた各自がそれぞれの段階
で見つけることができよう。

(2)動作の特徴

① 心静体松、用意不用力
太極拳は身体の外形、内面双方の意味において全身運動である。太極拳を「意識
体操」とみることもできるが、それはよく言われるように、太極拳が意識と動作、
そして呼吸の一致した運動であるからである。

太極拳をする時には、気持ちを落ち着けると同時に楽にし、全身をリラックスさ
せ、余分な力を使わないで行う。このことによって気血の運行をよくし、脳(あた
ま)にとっては訓練であると同時に積極的な休息となる。「動中求静」もまた太極
拳の矛盾を示す代表的用語の一つであるが、武術としての特徴は、意をより多く用
い、力をできるだけ使わないことによって、勁力を得るところにもある。

② ―動全動、相連不断
一動全動は「一動無有不動」(全身各部が全部動いていなければならず、動いて
いないところはどこもない、の意)と同義であり、 これと関連した用語には他に
「上下相随」や「内外相合」がある。
太極拳の姿勢には、「松」(ゆるやか。「松」のもとの字は髯であり、髪の乱れ
ているさま。したがってゆるい、 きつくないの意。)「柔」「円」「緩」(穏やか)
などの特徴があり,動作(時間的経過に着目した場合)は,行雲流れの如く連綿と
とぎれないで続くもの(「相連不断」「勁断意不断」)である。

(3)呼吸と脳

太極拳を習い始めからその呼吸にこだわる(囚われてしまう)のは正しくない。
太極拳は決して「呼吸体操」ではない。動作にある程度慣れてくれば,腹式呼吸
(横隔膜の収縮0弛緩によって,その上下径を増大0減少させる呼吸)が自然に身に
ついてくるものであるから,練習はやはり姿勢の調整に重きをおかなければならな
い。

身体の動きを一定の方向へ習慣づけるために練習が必要となるが, より高度な技
術を得るためには,「身体で覚える」ことと「考える」ことが必要である。「考え
る」ことによって「身体で覚える」ことをより確実にし,精度の高いものにしてい
く。大脳皮質による新企画の繰り返しと脳幹,小脳による反射化によって動作のレ
ベルが高くなる。小脳は進行中の運動を自動的に調節するフィードバック回路の拠
点である。スポーツの練習で「メンタルプラクティス」(イメージ0トレーニング)
が採用される昨今,太極拳はその元祖ではないだろうか。

呼吸運動は自律神経系に属しているが, 自律神経系の中枢は視床下部にあり,呼
吸中枢は延髄,後脳にあることが知られている。随意的な呼吸は自律神経と運動神
経の双方からコントロールされるが,自律訓練,セルフコントロール,バィォフイ~
ドバック等が言われだしてたかだか数十年,太極拳はここでも先輩である。太極拳
は意識的運動によって無意識領域をも効率的に開発する運動の一つである。

なお,動作と呼吸の関係を大ざっぱに言えば次のとおりである。
① 動作の始めでは吸い、終りでは吐く。動作の転換するところ、つなぎのところ、
″抱球″の動作では吸う。
② 身体が前に向かうときは吐き、後にひくときは吸う。
③ 腕、足が伸びるとき、出ていくときは吐き、 もどすときは吸う。

(4)太極拳と健康

太極拳が神経系統にいい働きをすることは上にふれたが、深くゆったりした呼吸
は腹腔内の血液循環を活発にし、胃場の蠕動を促すので、呼吸器系統、消化器系統
にいい影響を与える。また、腰を軸とした円の動きであり、絶えず重心が移動する
運動であるから、骨格、筋肉、関節を鍛練し、バランス感覚も養うことができる。
全身の各系統、器官の働きの向上、体内の代謝の向上は老化を防止する。体内の
状態が良ければ皮膚の状態も良い。皮膚は外界と自己を仕切る大きな系統である。
太極拳をすることは人間が本来もっているホメオスタシス(homeostasis)(恒常
性)に有益である。ストレッサー(ストレスとはこれに対する反応)が増加してい
る現代社会にあって太極拳は新たな価値を得つつある。